Loading...

田山プロ

田山幸憲

ナナシーをこよなく愛してくださった作家
写真

1946年、東京都生まれ。浪人生活を経て東京大学へ入学も五年間在籍した末の自主退学後はパチンコ打ちの道を辿る。『ナナシー』は最後のネグラとなった用賀H店でのメインとして、最もひいきにする機種であった。平成13年7月4日、心不全により54歳でその生涯を閉じる。様々なコラムをパチンコ必勝ガイドへ寄稿。

田山さんとの想いで

「ナナシーとパンプキンスープ」
末井 昭


写真

『そうこうしていたある時、現金機のシマに新台が入れられた。その名はナナシー。私にとって、これは決定的な出来事と言えるだろう。この時から現在に到るまでのおよそ三年間、私はほとんどCR機に手を出していないのだから。ナナシーを打ちながら、よく思った。やはり自分にはこういうパチンコの方が合っているな、と。桜新町のH店にナナシーが導入されたおかげで、私は心の安定を取り戻したのである。』

これは、パチプロ田山幸憲さんの著書『パチプロ日記X』(第10巻)に入っている「蘇る、名機との日々」というエッセイの一部です。
田山さんは平成5年に、生まれ育った豊島区要町の自宅を売却して、お母さんと世田谷区用賀のマンションに越してきました。そのため、長年「ネグラ」にしていた池袋S店を去り、溝の口のB店、桜新町のH店、青葉台のB店、用賀のC店、用賀のH店と、次々と「ネグラ」を替えていきます。
冒頭にある「そうこうしていたある時」というのは、桜新町のH店でパチっていた頃、現金機の釘が渋くなり、打つ台の選択が難しくなってしまい、「ネグラ」替えも含めてあれこれ迷っていたことを表しています。ナナシーがなかったら、どうなっていたでしょうか。
田山さんは平成7年に舌ガンになり、舌の4分の1を切除し、左の腿の筋肉を切り取って移植するという大変な手術をしています。退院してからも入院前と同じように、パチンコ仲間や『パチンコ必勝ガイド』で連載していた「田山幸憲のパチプロ日記」の担当編集者などが居酒屋に集まって盛り上がり、飲んだ後は麻雀に行ったり、飲み直しをしたりしていました。田山さんを囲んだ集まりは、ぼくも楽しみにしていたのです。

写真

個人的なことですが、ぼくは平成8年の秋に妻の元から家出し、現在の妻の美子ちゃんと方南町の古いマンションで暮らしていました。2年ほどして、そのマンションが建て替えになるので出なければならなくなり、美子ちゃんが探してきた桜新町のマンションに越すことになりました。
美子ちゃんが桜新町を選んだのは、彼女の両親のマンションが近くにあったからですが、そのマンションから、桜新町のH店も用賀のC店もH店も歩いて10分ぐらいだったので、田山さんとグーンと近くなったような気になりました。田山さんとパチンコ仲間がよく飲んでいた居酒屋「とり八」なら、徒歩で8分ぐらいで行けました。田山さんたちと「とり八」で飲んだ後、田山さんを誘って我が家のマンションの屋上で飲んだこともあります。
今思えば、そうしている間に、退治したはずのガンが田山さんの体を少しずつ蝕んでいたのかもしれません。
平成12年の5月、田山さんは体調が悪くなり、ガンの手術をした病院で検査してもらうと、舌ガンが再発していました。本来なら早速手術ということになるのですが、田山さんは頑なに手術を拒んでいました。

ガンが再発したからには、また入院しなければならない。入院して、また手術を受けなければならない。医師もそのつもりで、いろいろと話をしていた。今度は腹の一部を切って、組織を移植するのだとか。それはどうでもいいけれど、正直言って、オレには手術を受けるつもりがない。前々から、もしこういう事態になったら、拒否しようと思っていた。この度ガンが出来ているのは自然の舌の方。故に、始末が悪いのだ。人工の方ならばいくら切っても同じようなものだが、大切な自然の方となると、困る。今でさえも何かにつけて不自由しているというのに、これ以上切られたら、たまらない。話すことも食べることも、甚だ困難になるだろう。顔や口を歪めて、そういう行為をしている自分の姿が目に浮かぶ。そんなの、嫌だ。そうまでして生きようとは思わない。だから、医師にもきっぱりとこう言った。「手術を受けるぐらいならば、残りの人生を放棄する方がましです」と。(平成12年5月8日の「パチプロ日記」)

結局、放射線と抗ガン剤での治療となり、田山さんは入院することになりました。「見舞いに来るのは控えてほしい。オレをそっとしておいてほしい」という田山さんの言葉を無視して、多くの人が見舞いに訪れました。みんな田山さんに会いたかったのです。田山さんを励ます手紙も編集部にたくさん届き、それを持って行くと、田山さんは1通ずつ丁寧に読んでいました。
2ヵ月の入院が終わり、中断していた「パチプロ日記」の連載も始まり、田山宴会も始まったのですが、前のように宴会の後の麻雀や二次会はありませんでした。ガンが治ったわけではなく、鼻や首のリンパに転移しているようでした。「オレはガンの完治を諦めた。これからの自分はガンをかかえたまま生きて行かなければならないのだと悟った」と「パチプロ日記」に書いています。
その頃、田山さんは用賀のH店で、主にナナシーを打っていました。喉が腫れて固形物が食べられなくなったと聞いたので、休日になると、美子ちゃんが作ったパンプキンスープをタッパーに入れて、H店まで持って行きました。牛乳しか飲んでいない田山さんに、スープを飲んでもらおうと思ったからですが、それを理由にH店に行って、田山さんがいれば一緒にパチンコを打ちたいという気持ちもあったのです。しかし、土日はパチンコを休んでいるようで、滅多に会うことが出来ませんでした。
ある時、パンプキンスープを持ってH店に行くと、田山さんが出てくるところでした。昼過ぎだったので「もう帰るんですか?」と聞くと、「うん」と言ったあと、「やる?」と言って再びH店に入りました。ぼくがパチンコをやりたそうにしていたからです。
田山さんはナナシーのシマに行き、右端の台を指差しました。その台を打てということです。その380番台は、釘がグニャグニャに曲げられているのに不思議とよく回るので、田山さんもよく打っている台でした。
回転数の表示を見ると420回となっていました。おそらく田山さんが2500個落ちまで回して、ぶん投げて店を出たのではないかと思いました。その380番台に座り、2000円投入して50数回転したところで、手足リーチが上下に伸縮してピタッっと揃いました。田山さんに申し訳ない気持ちになりました。
大当たり終了後、54回転でまた大当たりしました。田山さんの方を見ると、向こうも大当たり中でした。さすがです。3回目は大当たり終了後24回転で来て、4回目はなんと大当たり終了後2回転目でした。田山さんが笑いながら拍手してくれました。これが、田山さんとパチンコを打った最後になりました。

写真

ナナシーを打つ田山幸憲

平成13年7月5日の朝8時頃、自宅の電話が鳴りました。出ると田山さんのお母さんで、しっかりした口調で「幸憲が昨日亡くなりました」と言いました。あまりにもしっかりした声だったので、そんなに驚かなかったのですが、みんなに連絡したあと、急に涙がポロポロ出てきました。美子ちゃんは、「田山さんともっといっぱい話をしておけばよかった」と言って泣いていました。
田山さんは容態が悪くなって入院していた病院で、7月4日17時3分に亡くなりました。7月4日、ナナシーの日でした。葬儀は7月7日になり、偶然とはいえパチプロらしい日にちだなぁと思いました。
毎年7月4日頃になると、田山さん所縁の人たちが声をかけ合ってお墓参りをしていて、それが20年続いています。コロナ禍で去年と今年は銘々が単独で行くことになりましたが、一昨年は30人近い人たちがお墓の前に集まりました。お墓の掃除をして、1人ずつお参りして、お墓にビールや日本酒や煙草を備え、みんなで缶ビールを開けて献杯し、そのあと居酒屋に流れるのが常なのですが、いつも田山さんがそこにいるような気がするのです。今年は1人で行って、田山さんと話をしてこようと思っています。

(豊丸産業は7月4日を「ナナシーの日」として日本記念日協会に申請し、2015年に認定されています。
参考文献:田山幸憲『パチプロ日記X』・末井昭『絶対毎日スエイ日記』)

末井昭
すえい・あきら
1948年岡山県生まれ。エッセイスト、フリー編集者。工員、キャバレーの看板描き、イラストレーターなどを経て、1975年にセルフ出版(現・白夜書房)設立に参加。編集者として『ウィークエンドスーパー』『写真時代』『パチンコ必勝ガイド』など15誌ほどの雑誌を創刊。2012年、白夜書房を退社。現在は執筆活動中、2014年、著書『自殺』が第30回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『素敵なダイナマイトスキャンダル』、『自殺会議』、『結婚』、『末井昭のダイナマイト人生相談』、『パチンコからはじまる〇×△な話』(山崎一夫・西原理恵子との共著)等

TOPに戻る